軍道紙はかつて大畑紙と呼ばれていました。2008年に軍道紙資料を調査させていただいた紙の博物館(東京都北区王子)には『大畑紙(軍道紙)の製造法』という貴重な文書がありました。東京手すき和紙工房では、軍道紙の前身である大畑紙の復元を2016年に試み、自生する楮を刈り取らせて頂いた森屋氏と文献調査でお世話になった八王子市郷土博物館へ数枚寄贈させていただきました。
紙の博物館の所蔵する『大畑紙(軍道紙)の製造法』
西多摩郡小宮村小宮尋常高等小学校之印
大畑紙(軍道紙)の製造法
財団法人製紙博物館
昭和29.6.30 395
大畑紙(一名軍道紙)
一、製造地
小宮村軍道を主とし、落合、寺岡、乙津、青木平の諸部落にて製す。
二、原料
畑楮にして、附近の各村より産す。また野楮と称して山に自生するものあり。檜原村小河内村等より多く産す。少し■交へ用ふ。
三、製造用具
(釜)口径二尺、深一尺五寸
(蒸桶)口径三尺、深三尺
(楮晒笊)
(楮打石)二尺五寸 二尺
(楮打棒)樫製にて大小あり
(紙漉槽)長三尺二寸、巾一尺七寸、深一尺
(竹簀三枚)一尺四寸に一尺一寸
(漉積台)一尺五寸に一尺二寸
(置草)漉積む紙の間に置く、細き草
(刷毛)藁にて製す
(紙乾板)長七尺巾一尺二寸
(楮引台)「マーリ」と称す
(楮引包丁)
四、製造薬品
曹達、白楮を煮るに用ふ。
木灰汁、旧前
とろろ葵、紙を滑らかにするために用ふ。
五、製造方法
年々十一月の頃木楮を切り取り、その皮を剥ぐに、長さを二尺五六寸位に切断し大束となし釜の上に据え、蒸桶を■ひて、これを蒸し、その皮を剥ぎ、一旦乾して、黒皮となし、これを水に浸して、その黒き外皮を去る。去て後乾し白楮となす。尚、水に浸すこと凡五時間、これを洗ひて煮るなり。煮るに白楮一貫匁に対し、曹達百二十匁から百五十匁を投入す(北村注12%~15%)。
或いは木灰汁を用ふることあり(旧時は単にこれを用ふ)乃ち煮たる楮を清流に晒し一々楮の黒点或いは塵を除去しこれを搾りて打つ。以て綿の如くなし。漉槽に入れて攪拌し、とろろ葵の汁を混合して簀を以て漉くなり。漉積みたるを圧搾して水気を去り干板に貼付して、日光に乾燥す。而して四十八枚を一帖とし、六十帖を一個とす。その六十帖を製するに黒皮九貫目を要し四名の工手を以て五日間を費す。
六、価格及販路
一帖金十四五銭位にして販路は同郡五日市町及南多摩八王子町の紙類商に販売す。
七、効用
その質至て堅硬なるを以て、油濾及袋物、養蚕用紙、焙炉、永久保存用紙、帳簿類等に適当なり。
伝て曰く調布(太布)の製業漸く衰ふるに及びて楮の用途減少し、為に斯業の開始せられしものならんと。予は竊に思ふ。南多摩郡川口村字山入の東に隣りて、大畑といへる所あり。農家十数戸、山入川の傍らに沿ひて点在す。そこに紙屋と称する屋号の家数戸あり。今は何れも該業(北村注、もともとあった業)をなさ■れども往時は前流を利用して紙製造をなしたりといふ。果して然らばこの辺より漸次播及して今日に及べるものあらずやと。知らず識者の教を候■■。
昭和二九年五月■■写す
製紙博物館
(北村注)
カタカナ文字は平仮名にした。漢字は一部平仮名にした。
不明文字は■表記。
平成22年10月30日